【銅賞】喜多美波さん「我が子と過ごした10ヶ月」 | 第1回ぐるっとママ懸賞作文

「私の出産」~母から子へ伝えたい言葉~

第1回ぐるっとママ懸賞作文

【銅賞】喜多美波さん「我が子と過ごした10ヶ月」

『あなたが教えてくれたこと』
 

コロナ禍で迎えた初めての夏のとても暑い日に、わたしは出産をしました。わたしにとって、初めてのお産でした。
新型コロナウイルスの全容が分からなかった頃で、上半身と下半身をパーテーションで仕切られマスクをつけながらのお産は、とてつもなく過酷でした。
しかしそれ以上に過酷な現実と向き合いながら、わたしは出産に臨んでいました。

出産予定日を1週間後に控えたある日、ふと「今日は胎動が少ないな」と感じました。しかし「お産直前は胎動が少なくなる」と聞いたことがあったので、少し不安を覚えながらも、その日は来たる出産予定日に備えて穏やかに過ごしました。

翌日、体調に変化は無いながらも、念のために病院に電話をしたところ、入院セットを持参して受診をするようにとの事でした。里帰りをしていたので病院に行く旨を伝えると、皆いよいよ赤ちゃんに会えると色めき立ちました。

父が運転する車に母と乗り込み、病院まで向かいました。緊張と不安の入り交じる胸の鼓動を感じながら、夫に「今から病院に行くよ」と連絡をしました。病院の敷地前で車から降り、まあるいお腹を抱えて、母と二人で病院の入り口まで歩きました。

入り口に到着すると、感染症対策でお付き添いはここまでと言われ、母に見送られながらスタッフの方と産科病棟に入りました。早速、エコーで赤ちゃんの状態を見ましょうねと、大きふくらんだ腹部にエコーを当てた医師の表情が、さーっと変わりました。エコーのモニターに映し出された赤ちゃんの心臓が、動いていませんでした。

このままでは母体が危険なので緊急分娩となり、点滴が始まりました。エコーのために横になったベッドから、一歩も動くことが許されず、横たわったまま仰向けで沢山の書類に署名をしました。医師の説明を聞きながら、ペンを持つ手の震えが止まりませんでした。

暫くするとお腹が痛くなってきました。初めて味わう陣痛の痛みは、とてもつらいものになりました。感染症対策でぎりぎりまでひとりきりで残された病室で、自分の体に繋がれた機械のモニターの数字を眺めながら、声も出さずにじっと痛みに耐えました。

いよいよお産が進み、防護服を着用した医師と助産師さん達に囲まれ、マスクで息苦しいなか、必死の思いでいきみました。

「産まれましたよ!」しかし産声はありません。

抱き上げられた赤ちゃんは、まるですやすやと眠っているようでした。
わたしは痛みからの解放と、やっと赤ちゃんに会えた安堵感で、涙が止まりませんでした。

その日の夜、点滴が続き、ひとりきりの病室で天井を見つめていると、他の赤ちゃんの元気な泣き声が病棟に響き渡りました。
ふと横を見ると、小さなベビーベッドの中で、静かに眠る我が子の姿がありました。

その時初めて、わたしは声をあげて泣きました。

感染症対策による面会禁止の入院を終え、夫の出迎えで赤ちゃんと一緒に退院をしました。実家に帰ると、夫の親も来ていました。わたしと夫の親ともに、初孫の誕生を心待ちにしていました。
皆泣いていました。残されたほんの僅かな時間を惜しみながら、代わる代わる抱っこをしました。

お別れの瞬間は、陣痛の痛みなんてかすり傷だと思えるくらいの、体を引きちぎられるような苦痛を伴いました。

やっとの思いで授かった待望の赤ちゃんでした。10ヶ月間、大切に育んできた命でした。望まれても、失われてしまう命があります。それでも、何か意味を持って産まれてきてくれた筈です。

人は多くの命とともに生きています。言葉で言うのは簡単ですが、命と向き合うという事は、決して容易い事ではありません。わたしはこの身をもって、その事実を知りました。

今、わたしの腕の中には、赤ちゃんがいます。いつかこの子が大きくなったら、このお話を伝えたいと思っています。戸籍に残らない上の子が、10ヶ月間を確かに生きていた証として、この子の心の中でこれからも生き続けてくれると信じています。

 

兵庫県 喜多美波さん
題名:我が子と過ごした10ヶ月
子どもへ伝えたい言葉:「あなたが教えてくれたこと⁡」